学校では、授業の最初に「なぜこの科目を勉強するのか」をじっくり説明してくれることはあまりありません。多くの場合、教科書を開いた瞬間から本題に入ります。
ふと、そのことを思い返した時に、ほとんどの先生は勉強の目的を教えてくれなかったのはなぜか疑問に思いました。
勉強の目的は意外と見えにくい
子どもの頃は、勉強の内容とその目的がなかなか結びつきません。
大人になって振り返れば、「直接役立つわけではないけど、考える力の土台になっていた」と気づく場面はあります。
でも、その“気づき”は時間が経ってからやってくるもの。子どもの段階では見えにくいものです。
「どうせわからない」ではなく、身近に置き換えて伝えられるはず
一部の人は「子どもには抽象的な目的は理解できない」と考えるかもしれません。
でも私はそうは思いません。たとえ直接の意義は伝わりにくくても、子どもの世界に近い事例に置き換えて説明することはできるはずです。
たとえばスポーツ。
サッカーで勝つためには、練習メニューを選び、その効果を見極めて実行する必要があります。これは数学で「問題文を理解し、適切な公式を選ぶ」のと似ています。
国語は「人を動かす力」
そして、もし自分がチームのキャプテンだったとして、仲間に改善案を伝える場面を想像してください。
「お前、戻りが遅いから1000回ダッシュ練習してこい」では誰も動いてくれません。
相手の気持ちや負担を考え、納得できる形で提案する必要があります。
これはまさに国語で学ぶ「伝える力」「相手の立場を想像する力」に通じます。
社会(歴史)は総合演習
歴史は、言ってみれば国語と数学の応用事例集です。
過去の優秀な人物たちが、時代の大きな問題にどう答えを出したか。その記録が集まったものともいえます。
例えば、火縄銃は強力だけれど装填に時間がかかる。この課題を、一人で複数丁を持つという発想で解決した事例は、数学的な思考に近いです。
また、豊臣秀吉の出世には、人心掌握や状況把握など、国語的なスキルが詰まっています。
さらに、権力を持った組織がなぜ繁栄し、どう衰退していったかを学ぶことは、現代の企業や部活動にも通じます。
学校の勉強は「直接」ではなく「間接」の道具
こうした例を見てもわかるように、学校の勉強は「直接的に役立つスキル」ではなく、「あらゆる場面に応用できる思考の道具」を学ぶ時間だと思います。
問題は、その道具がどう役立つのかを、授業の中であまり説明しないことです。
だからこそ、冒頭で“翻訳”してあげるべき
私は、授業の最初に「この科目は君たちにとってこういう場面で使える」と、子どもにも理解しやすい形に“翻訳”して伝えるべきだと思います。
それだけで学びの意義はぐっと身近になりますし、ただ暗記するだけの授業とは違うものになるのではないでしょうか。