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  • 英語に多義語は存在しない?ほとんどの単語は一つの意味に帰着できる

    英語に多義語は存在しない?ほとんどの単語は一つの意味に帰着できる

    最近ふと英語をすらすら読んだり話せるようになれたら仕事もプライベートも幅が広がりそうだなーと思って高校生ぶりに英語の勉強を始めているのですが、その中で結構こういう考え方にすると内容が入ってきやすくなるなと思った考え方があったのでまとめてみました。

    ちなみに、まだ全然勉強途中なので、普通に英語喋れる人からしたら当たり前じゃん、と感じたり、そもそも的外れな内容もあるかもしれないのでその点はご理解ください🙇

    英語を学んでいて感じた違和感

    今回のテーマは多義語です。
    英語を勉強していると、複数の意味を持つ単語によく出逢います。
    たとえば have は「持つ」という意味が最もベーシックですが、「経験がある」と訳されることもあれば、have to で「〜しなければならない」と義務の意味になることもあります。
    また like は「好き」と「〜のような」などの訳がありますし、leave に至っては「去る」と「残す」という、一見すると正反対に思える意味まで持っています。

    学校教育や参考書では、こうした単語の用法を「多義語」として暗記するように説明されることが多いと思います。
    でも、ふと色んな英文を読んでいる中でこれって実は一つの意味なんじゃない?と思うようになりました。実は、全部同じ意味の単語なんだけど、それを日本語に置き換えるときに複数の訳が生じているだけなんじゃないかなって。


    haveは「持っている」で説明できる?

    まずは have を例に考えてみます。
    多義語として暗記しようとすると、「所有する」「経験がある」「〜しなければならない」などバラバラに見えます。

    けれども、これらはすべて「持つ」という一点に集約できるように思います。

    • I have a car.(私は車を持っている)
       → これはそのまま所有の「持つ」ですね。
    • I have been to Paris.(パリに行ったことがある)
       → これは、パリに行った経験を「持っている」とも言い換えることができそう。
    • I have to go.(行かなければならない)
       → 行くという「義務」を「持っている」と解釈できます。

    日本語に直すと「経験を持っている」「義務を持っている」という言い方は少し不自然なので、それらが「経験がある」とか「しなければならない」と訳されているだけ。
    そう考えると、have が多義語である必要はなくなります。


    likeのコアイメージは「感覚的な距離の近さ」

    次に like です。
    日本人にとっては「好き」と「〜のような」の意味に訳されることがありますが、これも一つのイメージで説明できるのではないでしょうか。

    私が感じるのは「感覚的な距離の近さ」というコアです。

    • I like music.(私は音楽が好き)
       → 音楽との心理的な距離が近い。
    • He looks like his father.(彼は父親に似ている)
       → 父親との外見的な距離が近い。

    つまり、文脈によって「親しみ」というニュアンスになるか「類似」というニュアンスになるかが変わるだけで、根底のイメージは感覚的な「距離」が近いということ。


    leaveは「離れる」から派生している

    もう一つの例が leave です。
    辞書を引くと「残す」と「去る」で、正反対のような訳が出てきます。

    けれども、この単語のコアイメージを「基点から離れる」とすれば、どちらの意味にも説明がつきます。

    • I leave my house.(私は家を出る)
       → 家から自分が離れるので「去る」と訳される。
    • I leave my son.(私は息子を残していく)
       → 自分がその場を離れた結果、息子はそこに残る。だから「残す」と訳される。

    日本語に直したときに「家を残す」では不自然だから「去る」と訳す。
    でも、「息子を残す」は直訳でも自然だからそのまま「残す」と訳す。

    言葉的には一見逆にも見えますが、実際は同じ一つのイメージから派生しているのだと思います。


    学び方を変えるヒント

    この視点で考えると、英語学習のアプローチも少し変わってきます。
    「多義語を丸暗記しなければならない」という発想で考えると、覚えることも増えてくるし、訳す時もこれは〜〜構文だから、このhaveはきっと現在分詞で…みたいな感覚じゃなくてhaveが出てきたということはこの文章は(物理的か、概念的かはともかく)何かを所有しているという話なんだな。と感覚的に捉えやすくなります。

    多義語というよりは「一つのイメージの派生」と捉えれば、例文を見ても迷いにくくなります。


    まとめ

    今回考えたように、ほとんどの場合、英語の多義語は本当は存在せず、ほとんどの単語は一つの意味に帰着できるのではないかと思います。
    have、like、leave など一見すると複数の意味を持つ単語も、コアイメージで説明すればすっきり整理できる。

    英語を勉強する中で、「これは別の意味なんだ」と切り分けるよりも、「根っこのイメージは同じなんだ」と考える方が、ずっと理解が深まりやすい気がしています。

    英語得意な人からしたら当たり前のことかもしれないけど、個人的にちょっとした発見のように感じたのでまとめてみました。

  • 荒削りだけど世界観が魅力的なカリスマ的バンドをなぜ最近見ないのか

    荒削りだけど世界観が魅力的なカリスマ的バンドをなぜ最近見ないのか

    はじめに:あの頃の音楽の魅力

    かつて、日本の音楽シーンには、演奏の完成度よりも、歌詞や世界観、独自の空気感で多くの人を惹きつけるバンドが数多く存在していました。
    失礼になってしまうかもしれないので具体的な名前は控えますが、2000年代初頭やそれ以前は音楽技術は多少荒削りであっても、歌詞の力や物語性、独特の雰囲気で強く心を掴み、多くの人の記憶に残るバンドが数多くいました。
    特にロックやパンクといったジャンルではその傾向が顕著だったように思います。


    ネットの普及で変わった“耳”と音楽の入口

    2000年代初頭までは、音楽との出会いは限られていました。TSUTAYAでのレンタルや、友人からの貸し借り、ラジオやテレビ番組が主な入口で、比較対象はそれほど多くありません。結果として、リスナーは曲の世界観や歌詞にまず惹かれ、その後に演奏やアレンジの個性を味わう余裕がありました。

    しかし現在は、YouTubeやSpotifyなどで国内外のあらゆるアーティストをワンクリックで聴き比べることができます。録音・編集技術も進化し、配信段階での音質や演奏精度は非常に高い水準が当たり前になりました。そのため、音楽に触れた瞬間の印象が、以前よりも完成度に左右されやすくなったのではないでしょうか。


    SNS時代の評価サイクルと“荒削り”の行方

    SNSやサブスク時代の音楽は、初めて聴く数秒間で評価される場面が増えました。
    そこで耳にする音は、世界中の完成された楽曲と同列に並びます。以前ならライブや口コミを通して徐々に魅力を知ってもらえたアーティストも、今では最初の数秒で印象が決まり、その後の成長や変化を見てもらう機会が限られてしまいます。

    この構造では、「世界観や歌詞が光るタイプのアーティスト」が、その魅力をじっくり伝える前に埋もれてしまうこともあるように思います。かつては、音楽的な完成度だけでは語れない魅力が、時間をかけて広まっていくケースも多くありましたが、その余地は狭くなっているようです。


    近年のシーンで見かける“世界観先行型”は?

    2010年代以降にも、独自の世界観や言葉で熱心な支持を集めるアーティストはいます。
    例えばMOROHAは、力強い語りとメッセージ性で熱狂的なファンを獲得していますし、米津玄師さんなんかは当時流行った音楽の影響を色濃く感じるアーティストです。
    YOASOBIもスタートは小説を楽曲化するという一風変わったプロジェクトを実現するために結成されたユニットです。
    藤井風さんなんかもカリスマ性も相まって人気を博している代表例ですよね。

    ただ、これらのアーティストはブレイク当初から演奏や制作面で安定した水準にあり、いわゆる“荒削りな状態”で全国的な人気を獲得したケースには当てはまらないように思います。
    YOASOBIもソニーミュージックエンターテインメントのプロデューサーと当時からボカロPとして人気を博していたAyaseさんがタッグを組んだプロジェクトで、現在の反響は予想以上だったとは語られているものの元々戦略的・技術的に成功する土壌があったユニットのように思います。


    多様性としての“荒削り”

    本来、音楽も市場に流通する作品であることを考えると、どの側面を見てもプロ水準を満たしたものであるべきなのかもしれないし、現代の潮流の方が本来あるべき姿なのかもしれません。
    ただ、これは2000年代に青春時代を過ごしてきた懐古的な考え方なのかもしれませんが、
    やっぱりあの時代に育っていると荒さや未完成さも含めて味となっていたアーティストというのもそれはそれで一つの魅力であり文化であったようにも感じます。

    あの時代のバンドたちの、演奏や音作りだけでなく、その荒削りささえも味となっていた世界観が、ファンにとってのかけがえのない体験になっていました。今、その枠が小さくなっていることは、少し寂しくも感じます。

    今後また、2000年代初頭やそれ以前のような荒削りなカリスマアーティストがシーンを席巻するようなことは起きるのでしょうか。

  • フリーランスは土日も働くべきか?

    フリーランスは土日も働くべきか?

    フリーランスとして働くにあたって、おそらく多くの人が一度は考えたことあるであろう問題がこの議論です。
    「フリーランスなら土日も関係なく働くべきだ」という意見と、「フリーランスだからこそ土日はしっかり休むべきだ」という意見。

    土日も働く派の意見

    土日も働く派の人たちは、主に次のような理由を挙げます。

    • 機会損失を避けられる
      いつでも対応してもらえるというのは、依頼側のお願いしやすさにつながって受注機会が広がる。
    • 収入や成長を最大化できる
      稼働日数を増やすことで、売上も増えるし経験も早い速度で積むことができる。
    • キャリア初期の加速
      独立初期は案件や実績を増やすことが最優先であり、そのために休日返上も厭わない。

    土日は休む派の意見

    一方で土日は休む派の人たちは、次のような理由を重視します。

    • 長期的なパフォーマンス維持
      休みを取ることで心身の疲れをリセットし、安定した成果を出し続けられる。
    • 生活の質を守る
      家族や友人との時間、趣味や学びの時間を確保することで、人生全体の満足度を高められる。

    あとこれは個人的な経験則ですが、土日休む方針にするのは案件のフィルタリング効果もあるように思います。
    お客様の業種業態にもよりますが、一般的な暦通りに運営されている企業からのご相談で土日や深夜対応に応じないと受注できない案件というのは、経験上、何かしら進行上の問題も孕んでいて疲弊に繋がりやすいご相談が多い印象があります。


    フリーランスの本質は自由と責任

    この問題への結論として、この記事ではどちらが正解という答えは出しません。
    フリーランスの本質はいつ休むべきか、ではなくて「あらゆる方針は自分が自由に決められること」「ただし、その決定への全責任を自分で負うこと」だと思うからです。
    フリーランスという働き方はすべての判断を自分で下せる代わりに、その結果の責任もすべて自分に返ってきます。
    働く日や時間をどう設定するかも自由。ただし、その選択によって得られるメリットも生じるデメリットも、他の誰でもなく自分が引き受ける必要があります。

    例えば、土日も休まず稼働すれば、単純に稼働時間が増える分、収入やスキル習得のスピードは早まります。いつでもお願いできるという安心感が成約を後押ししてくれる機会も増えるでしょう。
    一方で、休みをしっかり確保すれば、生活リズムや健康を保ってパフォーマンスを安定させやすくできますし、インプットの時間も増えます。単純に趣味を満喫したり、友人・家族との時間に割いたりという人間らしい生活を送りやすくもなるでしょう。でももちろん、休みを増やした結果仕事が減り、生活が苦しくなったり廃業することになったとしてもそれも自分の責任です。

    土日働くか休むかは「どちらが正しい」という話ではなく、それぞれの影響を理解したうえで、自分に合う選択をすることが大事だと思うのです。


    フェーズによって働き方を変えるのもあり

    もちろん、この方針は一度決めたら未来永劫変えてはいけないものでもありません。
    例えば独立初期は、仕事を軌道に乗せるために、なりふり構わず土日も働き、2〜3年経って安定してきたら、生活の質や健康を考えて平日と休日を分けるスタイルにシフトすることも可能です。

    状況や目標によって働き方を変える柔軟性を持つというのも一つの考え方です。

    私の方針

    私は公式には暦通りの休みを宣言しており、お客様にもそのようにご案内しています。
    よほど緊急事態でなければ週末に仕事の連絡をすることはありません。
    (そしてそんなよほどの緊急事態はほぼありません。笑)

    ただ、作業などは週末に進めることもあったりします。
    どうしてももうちょっとこだわりたいとか、少し稼働を詰め過ぎてしまったとか、自社資料を整えたりとか。
    土日休んでいても誰にも怒られないけど、実際は仕事していることもあるくらいのスタイルに落ち着いています。

    休むのは努力になる

    ここまでの話からもう一つ見える視点としては、休みというものの性質が会社員とフリーランスではがらっと変わるという面があります。

    会社員にとっては会社から最低限の休暇が与えられることは会社の義務です。
    でも、会社員にとって休むのは努力になるんです。

    週末休むということは言い換えれば週7日あるうち、2日は稼働をしなくても事業が成立している状態を意味します。
    フリーランスの場合、ただ休むだけなら簡単ですが、同時に残りの5日でしっかりと必要な売り上げを確保するための工夫や行動が必要になるんです。

    幸いにも私は独立初期から今に至るまで比較的売り上げが安定している方なので、独立初期から少なくとも表向きには週末は休む方針を貫けていますが、
    今後売り上げが苦しい時期に直面したら、こんなに土日休んでいていいんだろうか、、と不安に駆られる時も出てくるかもしれません。

    少し考えれば当たり前のことですが、ここは案外フリーランスになって概念が大きく変わったと感じることの一つかもしれません。


    まとめ:休むかどうかより、責任の持ち方

    結局のところ、フリーランスの本質は「土日休むべきか否か」という二択ではありません。
    自分で判断し、その選択がもたらす影響すべてに責任を持つこと。これに尽きると思います。

    土日働くことも、休むことも、どちらも正解にもなるし不正解にもなり得ます。
    だから、その選択によって何が変わるのかを正しく理解し、自分の価値観や戦略に沿って決めることが、本当の意味での「自由な働き方」ではないでしょうか。

  • フリーランスの営業戦略。業界向けか顧客向けか

    フリーランスの営業戦略。業界向けか顧客向けか

    独立してフリーランスとして活動を始めるとき、まず最初に考えておくべき視点の一つに「業界向けを狙うのか、それとも顧客向けを狙うのか」という戦略があります。
    それによって案件獲得の方法や発信の仕方、ポートフォリオの作り方まで大きく影響してくる選択だと思います。

    業界向けか顧客向けかで変わる評価軸

    例えばデザイナーの場合、「業界向け」とは制作会社や広告代理店、フリーのディレクターやプロデューサーといった、同業界のプロフェッショナルからの発注を想定することです。
    一方の「顧客向け」は、企業の経営者や異業種の個人事業主、広報/マーケティング担当者など、デザインの専門知識を持たない依頼主からの発注を狙うことです。

    この二つは、求められる視点が大きく異なります。
    業界向けでは「どのくらいのクオリティで、どれくらいの期間で仕上げられるか」「どんなツールが使えるか」「どんな案件経験があるか」といった、ミクロなスキルや経験が重視されます。専門用語や制作工程の詳細も評価の対象になります。
    一方、顧客向けでは「そのデザインがビジネス課題をどう解決するか」「売上や集客にどうつながるか」という、より広い視点が求められます。ツール名や細部の仕様は必ずしも説明する必要はなく、ビジネスへの貢献が伝わることが重要になります。

    制作プロセスは両方で使えるが、語り口は変える

    制作プロセスなどの説明も、どちらのケースにおいても有効ではありますが語り口や見せ方は変わります。

    顧客向けであれば、専門用語はなるべく避け、「課題に寄り添った道筋を立てて進行している」といった仕事への姿勢や誠実性などの大枠を理解してもらうことが大切です。
    逆に業界向けでは、「Figmaを使用してコンポーネント管理やデザインガイドラインを策定し、制作を効率化しました」「幾何学的な印象を出すためにHelveticaではなくFuturaを使いました。」「コンポーネント思考での実装と高速化のためにNext.jsフレームワークを用いて実装しました」など、工程や仕様、それらの導入意図を正確に示す方が専門性が高いとみられて信頼されやすいです。

    つまり同じ案件でも、顧客向けには「安心感のストーリー」として、業界向けには「技術と再現性の証拠」として見せる。この切り替えができるかどうかで、相手への刺さり方は大きく変わります。

    独立初期は「両張り」も一つの戦略

    独立初期は、まだ自分がどちらに向いているか、どちらの方が案件につながりやすいか分からないことも多いです。
    そのため、最初は業界向け・顧客向けのどちらとも取れる、あるいは2つ作って相手によって使い分ける方針も有効だと思います。実際に案件をこなす中で、自分が得意とする分野や利益率の高い案件の傾向が見えてきます。

    ただし、このとき重要なのは「ターゲットによって伝えるべき内容が変わることを意識する」ことです。
    無意識にこれらの情報を混ぜてしまうと、顧客向けポートフォリオなのに専門用語だらけで難しそうに見えたり、業界向けの自己紹介なのに成果事例の説明がふわっとしていたりと、どちらにも刺さらない中途半端な形になってしまうことがあります。

    同じ案件でも説明を2パターン用意する

    おすすめは、一つの案件を顧客向けと業界向けの2パターンで説明しておくことです。
    顧客向けでは成果や効果を分かりやすく伝え、業界向けでは工程や仕様を明確に記載します。これによって発信や営業の場面ごとに適切な説明を選べるようになります。

    例えば、自分のWebサイトでは顧客向けの説明を掲載しつつ、業界向けの詳細は別の資料としてまとめる。SNSでは相手によって投稿の切り口を変える。これだけでも案件の入り口は広がります。

    まとめ:まずは「違いを知る」ことから

    フリーランスにとって、業界向けと顧客向けのどちらを狙うかは、案件の入り方や仕事の進め方を大きく左右します。
    もちろん、最初から一方に絞る必要はありません。むしろ、経験を積みながら少しずつ軸足を移していく方が現実的ではないでしょうか。
    ただ、そのためにも「業界向けと顧客向けでは、求められる評価軸も発信の仕方も違う」ということを早い段階で理解しておくことが大切だと思います。

    違いを知り、相手に合わせてアピールの方法を切り替えられるようになる。
    これができるだけで、フリーランスとしての活動は格段にやりやすくなるのではないでしょうか。

  • 時間は本当に”一定”なのか?

    時間は本当に”一定”なのか?

    私たちは普段、時間を当たり前のように「一定の速さで流れるもの」として捉えています。
    朝になり、昼になり、夜になる。そのサイクルは変わらず、時計の秒針は同じテンポで進んでいく。
    でも本当に、時間は絶対的に一定なのでしょうか?


    時間は「物理現象の進み具合」でしか測れない

    時間というのは、厳密には「物理現象の進み具合を基準に切り取った単位」にすぎません。
    例えば、時計は振り子や水晶振動子の周期で時間を刻みます。私たちの体も心拍や神経伝達といった生体のリズムで日々を感じています。
    つまり、時間の計測は常に何かの現象と比較して行われているのです。

    もし仮に、地球上のあらゆる物理法則が一斉に半分の速度になったとしたらどうなるでしょうか。
    原子の振動、時計の針の動き、私たちの脳や筋肉の動作も全て半分の速さに。
    そのとき、外から見る存在がいなければ、私たちはその変化に気づくことはできません。なぜなら「基準」も「観測対象」も同じだけ遅くなってしまうからです。


    それを証明できない理由

    私たちが観測できるあらゆるものの時間が同時に均等に半分になる…そんなことはもちろんほとんどあり得ない話ですが、
    でも「そんなことは起きていない」と証明することは困難です。
    私たちが時間の変化を検知できるのは、異なる速度で流れる基準が存在する場合に限られます。
    例えば、精密な原子時計を搭載した人工衛星と地上の時計を比較すれば、わずかな時間のズレでも観測できます。

    しかし、もし宇宙全体が同じ比率でスローダウンしていたらどうでしょうか。
    比較対象が存在しないため、どれだけ精密な装置を作っても「遅くなった」と判断することはできません。
    これは科学というより哲学的な領域の話で、「起きているかどうかは原理的にわからない」という種類の問いになります。


    アインシュタインの相対性理論との関係

    この考え方は、アインシュタインが提唱した相対性理論とも近いようです。
    (実は相対性理論はこれまで名前くらいしか知らなくて、今回の問いを深めるなかで初めて内容を知りました笑)
    特殊相対性理論では、光速に近い速度で移動する物体や強い重力の下にある時計は、他の基準と比べて遅く進むことが示されたそうです。
    例えば、国際宇宙ステーションの宇宙飛行士の時間は、地上の人よりほんのわずかに遅れます。これは実験的にも確認されているようです。

    ただし相対性理論が扱うのは「速度や重力が異なる二つの基準を比較する」場合です。
    今回の仮説のように、宇宙全体が同時に変化している場合は比較できないため、相対性理論を使っても今回の問いが起きていない証明はできません。


    ちょっとしたオカルトのような面白さ

    現実的に考えれば、宇宙全体の物理法則が一斉に変化する確率は限りなくゼロに近いはずです。
    それでも「もしかしたら」を完全に否定できないところがちょっと面白いなあと思いました。

    例えば、実は今の地球は生まれた時の1万分の1のペースで時間が進んでいる…なんて可能性ももしかしたらありえるんですよね。
    なんだか一種の都市伝説やオカルトのような感じがします。


    結論としての私の意見

    私たちは時間を「一定」だと感じていますが、それは私たちがそう感じる基準の中で生きているからにすぎません。
    もし基準そのものが変わっても、私たちはそれを知覚できないでしょう。
    これは科学的に証明できる話ではありませんが、「そんな現象が起きていない」ということもまた、証明できないのです。

    現代に生きる私たちにとって、発展した科学は絶対のように見えます。
    しかし、それはあくまで地球から測定できる範囲の法則の集積です。
    宇宙全体や、この世の全てから見ると、地球に関わることですら、まだ私たちが気づいていない事実が数多く眠っているのではないでしょうか。

  • あの公約はどこへ行った?当選後に公約が消える問題

    あの公約はどこへ行った?当選後に公約が消える問題

    選挙前後の公約消滅問題

    少し前に参院選がありましたが、選挙のときに候補者が「当選したらこうします」と言っていた公約が、いざ当選するとあっさり覆されてしまうような場面を多々目にしました。そういう“手のひら返し”が多いと、選挙自体に意味があるのか疑問になってしまいますよね。「選挙前だけいいこと言っておけばOK」というのはあまりに不誠実に感じてしまいます。もちろん、政治事情や国際情勢、景気の変化などを理由に、予定を柔軟に変更する必要がある場面もあると思います。でも、それならなおさら、事情が変わったときに正直に「なぜ遅れているのか」「今後どう対応するのか」を説明してくれる仕組みが欲しい、と思います。

    「報告制度」は必要ではないだろうか

    例えば、選挙公約にマイルストーンを設けて、進捗状況を定期的に報告させる制度など。
    当選後一定期間ごとに、もし公約に遅れや変更、中止があった場合には、その原因や今後の対応を説明するような仕組みです。この報告制度があれば、透明性が高まり、有権者として「なぜ進んでいないのか?」と納得しやすくなるのではないでしょうか。
    公約を何かしらの理由で中止するにしても、自然消滅するのではなくてどういう事情で中止したのかを明確に伝える義務を負い、次の選挙戦ではその報告内容もことあるごとに付いて回るようにするという感じです。

    柔軟性とのバランスを考えて

    公約達成を厳守させる制度にしてしまうと、予測不能な世界情勢や経済状況の変化に対応できず、政策の柔軟性を失ってしまう恐れもあります。しかし、だからといって無条件に公約変更を許すのも危険に思います。「遅延や変更があった場合は、正当な理由をきちんと説明する」ことだけ義務化するくらいなら、柔軟性と信頼性のバランスがとれる仕組みになるのではないでしょうか。

    他国の透明性制度からヒントを得る

    イギリスでは既に似たような取り組みがあるようです。
    Open Government Partnership
    公約の進捗をレポートとしてまとめる制度があって、それぞれの進捗や成果 (達成、部分達成、未達成)、それらの原因分析などが報告されているようです。
    こう言う制度が日本でも取り入れられると良いですね。

    まとめ

    まとめると、選挙公約にマイルストーンを設け、進行状況を定期報告させる制度と、遅延や変更の際には理由や今後の対応を説明する義務を組み合わせることは、制度と信頼の両立に近い現実的な方法ではないかと思います。
    柔軟性を損なわずに、政治の説明責任を高めるには、まずこうした制度を地道に積み重ねることではないでしょうか。制度改革とともに、市民やメディアも「どう説明されたか」を見ていく姿勢を持つことが大切だと思います。

  • ゲームは「害」?僕たちがゲームから教わったこと

    ゲームは「害」?僕たちがゲームから教わったこと

    ゲームは「害」で「ただの娯楽」なのか

    「ゲームは教育に悪い」「ゲームは1日1時間まで」「ゲームをやると馬鹿になる」——こうした考え方や教育方針を一度は耳にしたことがある人は多いと思います。

    たしかに、ゲームにはやりすぎによる運動不足や生活リズムの乱れを引き起こしやすい負の側面があります。
    さらに、多くのゲームは、他者とのコミュニケーションがないor限定的で、プレイ中はプログラムの枠組みから外れる出来事もほとんど起きないため、現実社会で求められる柔軟な思考が得にくい側面もあるように思います。

    これらが、冒頭のような考え方を生んだ一つの理由でしょう。
    しかしゲームは「娯楽」以外の価値を持たない「害」なのでしょうか?
    私は上記はゲームが持つ性質の一つであり、それだけによってゲームを「害」と決めつけるのは早計なように思います。

    私はゲームは、見方を変えるとスポーツや友達関係、恋愛、仕事などにも並ぶ、人生に必要な学びを得られる一つの分野であると考えています。
    一概にゲームを「害」と見なすのではなく、それが持つ特性、功罪を分解して捉えて、自分の人生にうまく取り入れる発想が大事だと考えています。

    ゲームでしか味わえない成長体験

    名作と呼ばれるゲームは、ユーザーを熱中させるために、プレイヤーを強く引き込み、短期間でそのゲームに必要なスキルを大きく伸ばさせる力があるように思います。
    その理由は、多くの名作ゲームが共通して持つ次の4つの特徴にあると考えます。

    1. ゴールが明確であること
      ゲームはプレイヤーが「何を目標にプレイしているのか」「何をすればゴールになるのか」を常に理解できる状態になっていることが多いです。
    2. 失敗の理由がわかりやすいこと
      優れたゲームは負けた時の原因が明確で反省や納得しやすいよう設計されており、反省しようがない理不尽な状況は起こりづらくなっています。
      敗北をすぐに次のプレーに活かすことができます。
    3. 時間のロスが少ないこと
      他分野、たとえば部活なら玉拾いやグラウンド整備、交代による待ち時間などのように、本質的ではないが必要な時間が一定割合を占めることも多いです。
      一方ゲームは、そうしたロスタイムを極力減らすよう設計されていることが多く、純粋な成長体験により多くの時間を割くことができます。
    4. 状況に応じた適切なハードルが提示されること
      多くの名作ゲームはユーザーの状況に応じてちょうど良いハードルが提供されるよう設計されています。簡単すぎず、無理すぎない課題が次々に現れるため、挑戦と成長のサイクルが自然に回ります。

    これらの要素が多くのプレイヤーに熱狂をもたらし、自発的で高速なPDCA体験を与えます。
    そんなコンテンツはゲーム以外にはなかなか存在しないのではないでしょうか。
    こうして得た成長体験は、勉強や部活、仕事など他の分野に取り組む際の成長計画にもモデルケースとして応用できると思います。

    ジャンル別に見る鍛えられる力

    そのほかにも、ジャンルごとに学べることは多くあります。

    RPGから学べる自然な誘導

    例えばRPGを分析的に楽しむ人は、ユーザーを自然に誘導するUI/UXの巧みさに気づくことでしょう。優れたRPGには、押し付けがましくなく目標や課題を提示し、あたかもユーザーが全て自分の意思で行動しているように感じさせる工夫が随所に盛り込まれています。

    もしゲーム中に「次はこれをしてください」「そのあとはこうしてください」と逐一細かく指示されれば、ユーザーは窮屈さを覚え、やがて離れてしまうでしょう。だからこそ、さりげない誘導でモチベーションを維持し、自然に目的へと導く設計が重要になるのです。

    この発想は、ゲーム以外のアプリはもちろん、チームビルディングや教育、店舗運営などあらゆる分野での体験向上にも応用できるのではないでしょうか。

    アクションゲームから学べる瞬時の状況判断

    FPS(シューティングゲーム)や格闘ゲーム、スポーツゲームなどは、身体こそ動かさないものの、脳の使い方は実際のスポーツに近いと感じます。
    私も初めて『Fortnite』や『Apex』に代表されるFPSをプレイした時は、敵に撃たれるとパニックになって無作為に逃げ惑い、そのまま倒されてしまうことが多くありました。

    しかし、慣れてくると動きは一変します。まず防御を固めて時間を稼ぎ、その間に「どこから」「何人」に攻撃されているかなどを瞬時に把握。その上で、応戦するか逃げるかを決め、応戦するなら戦い方を、逃げるなら安全な逃走ルートを1秒にも満たない間に判断できるようになります。焦る場面ほど冷静に、そして最短で最適解を導く感覚は、ゲームを通じて身につく大きな力だと思います。

    こうしたリアルタイムの状況判断や即決力は、車の運転や現場仕事でのオペレーションなど、現実の場面でも役立っていると感じます。

    ローグライクが教えてくれたリスク管理

    私は、仕事でリスク管理や戦略的思考が得意だとよく言われますが、振り返るとその原体験は、私が最もやり込んだジャンルである「ローグライクゲーム」にあったように思います。
    ローグライクゲームとは、日本では『トルネコの大冒険』や『風来のシレン』などに代表される、失敗すると集めたアイテムや経験値をすべて失い、最初からやり直しになる厳しいルールを持つダンジョンRPGです。プレイ時間を重ねればいずれクリアできるというものではないため、プレイヤーの戦略性や経験、立ち回りのブラッシュアップが求められます。

    高難度のダンジョンでは、99階踏破といった長期目標に挑みます。数時間から時には10時間以上に及ぶプレイの中で、各フロアには多様な課題があり、「まさかそんなこと起きないだろう」と思うような1%未満の不運にも何度も直面します。そうしたトラブル一つで、数時間分の努力が一瞬で失われることも珍しくありません。

    このようなゲームでは、序盤から終盤までの長期的な計画を練った上で、あらゆる場面で最悪の事態を想定し、そのリスクを少しでも抑える立ち回りが要求されます。
    この発想は、今の仕事でも活きており、長期視点での戦略立案や、多くの人が見過ごすような小さなリスクへの事前対策に自然に結びついています。

    私はこれまで仕事の中で炎上案件に見舞われたことがほとんどありませんが、それはローグライクゲームによって周りから「考え過ぎだよ」と言われるような小さなリスクまで想定し、未然に対策を考える習慣が身についたからだと考えています。

    本質的にはスポーツや将棋、囲碁なども同じ

    こういった娯楽に価値があるケースは、もっと身近にも存在すると思います。
    例えばスポーツや将棋、囲碁などの分野です。

    たとえばサッカー。ルールだけを切り取れば「ボールを蹴って相手のゴールに入れる」というただの球蹴り遊びです。しかし、それは今や世界中で熱狂的に支持される競技であり、プロとして活躍するためには何千、何万人に一人という狭き門を突破しなければなりません。その過程では、ストイックな努力による技術の向上はもちろん、チームメイトや監督との信頼関係構築、戦術理解、心身の自己管理など、多くの学びや経験が必要になります。そしてその積み重ねが選手自身の人間的成長につながり、ファンや社会にも影響を与えるのです。

    将棋や囲碁も同じです。これらも単純化して考えればただのボードゲーム遊びです。
    ですが、プロの世界では工夫や努力によって技術を高めた上で、高度な戦略や集中力、長時間の思考持久力が求められ、そこには数々のドラマが生まれます。

    もちろん、プロまでは目指さず、それらに趣味や部活動として取り組んだとしても得られるものは多くあると思います。いずれも本質的にはただの遊びですが、そこに真摯に取り組む価値を否定する人は少ないでしょう。

    ゲームも、まだ上記に比べると成立から期間が短いからその価値に懐疑的な人が多いだけで本質的には同じように思います。最初は一部の人が楽しむ趣味であっても、やがて大規模なコミュニティや産業に発展し、そこで培われるスキルや経験が個人や社会に還元される。こうした「遊びが文化や競技へと昇華していくプロセス」を、ゲームも着実に歩んでいるのではないでしょうか。

    おわりに

    冒頭の通り、ゲームはもちろん世間で思われているように見方によってはマイナスの面もあります。
    でも今回説明したように特性を分解して考えると人生に貴重な学びをもたらしてくれる側面も決して小さくないと思います。

    どんなものにだって正の側面もあれば負の側面もある。
    運動も大事だけどやりすぎて勉強そっちのけでは良くないし、
    恋愛や友達関係だって素敵なことだけど、それで部活や勉強を疎かにするのは考えものですよね。

    それと同じでゲームだってある面では人生の糧にはなるし、のめり込み過ぎれば弊害もある。

    大事なのは、しっかりとそのメリット、デメリットを理解してバランス良く自分の人生に取り入れることじゃないかなと思います。

  • AI時代のビジネスモデル OJT型スクール

    AI時代のビジネスモデル OJT型スクール

    よくAIと壁打ちしている中で、新しいビジネスモデルを思いつくことがあるんですが、自分でやるには向いてなさそうな内容も結構多いので、そういうのは話のネタとしてブログで吐き出していこうと思います。

    専門職の「入口」が変わるかもしれない

    ここ数年、AIの進化が加速しています。特に文章生成やリサーチ、簡単な画像生成、データ処理など、これまで人間のアシスタントや若手社員が担っていた業務の多くが、自動化できるレベルに近づいてきました。
    今でもすでにかなり自動化が進んでいるし、向こう数年以内には今アシスタントと呼ばれる人たちが担っている業務の大部分は代替できるようになるのではないでしょうか。

    たとえば、デザイン業界では、これまでは新人が画像の切り抜きやルールに沿った画像素材、バナーの量産などを担当して先輩が専門性の高い業務に集中できるようアシストする一方で、
    若手は先輩の仕事ぶりを間近で見て学ぶ…という構図がありました。法務や会計、プログラミング、広告運用など他のホワイトワーカー職でも同じで、単純作業を通じて先輩の負担を軽減しつつ、身近でプロの仕事を見ながら覚えるという構図になっている業界は少なくありません。

    しかし、AIがその単純作業を安価かつ高速にこなせるようになると、「アシスタントを雇うより高性能なAIを使った方が安くて早いのでは」という企業側の疑問が強まります。

    そうなると、人間は少なくともAIに必要なプロンプトを伝えて、上がってきた成果物の質をある程度見極め、フィルタリングや修正指示を出せるくらいの経験がないと企業がお金を払ってその人を雇うメリットがありません。
    しかし、それを行えるスキルは現代ではプロデューサーやディレクター、マネージャーと呼ばれる職種の人が行っているもので、多くの場合、一定の実務経験が必要でしょう。

    結果として、未経験者の採用枠が縮小し、企業は「即戦力の中堅以上しか採らない」という判断に傾く可能性が高まっていくのではないかと思います。


    アシスタント不要化がもたらす課題

    これまでの専門職の育成は、ある種の師弟制度に近い形で成り立ってきました。若手は業務自体は単純作業を担当することになるが、先輩のノウハウを間近で吸収できる。そして先輩はルーチンワークを圧縮して自分の時間をより価値の高い仕事に割ける。双方にメリットがあったわけです。

    しかし、アシスタントの役割がAIに置き換われば、この「現場で学ぶ入口」が消えます。企業はもうアシスタントに振る業務がなくなり採用メリットがなくなるので、若手採用を渋り出す。
    すると若手は経験を積む場を失い、業界全体で次世代の育成が滞る。これが長期化すれば、中堅以上の層が枯渇し、業界の競争力が落ちていく危険もあります。

    もちろん、一部の大企業であれば長期的な回収を見越してそれでも若手を採ることはあるでしょうし、
    中小企業であっても飛び抜けたポテンシャルを感じる若手を採用することはあると思います。
    しかし、多くの企業は「高性能AIを月額契約する方が、アルバイトや新人を雇うより合理的」という判断に傾いていく可能性が高いのではないかと思います。
    実際に、すでに、AIの影響によるリストラの話もちらほら耳にするようになってきていますね。


    新たに生まれるOJT型スクール

    では、経験を積めない若手はどうすればいいのでしょうか。

    そこで今後生まれるであろうビジネスモデルがOJT型スクールです。
    これは、この記事を考えるにあたって用意した造語ですが、これまでであればアシスタントが下積みとして行っていたような業務が教育期間などのカリキュラムに移管されて、受講生が現場に近い形でスキルを身につける仕組みです。

    あるいは各企業が参加費が必要な中期インターンを企画し、そこで学生などが一定の金額を支払って実践に近い経験を積ませてもらう、みたいなパターンも出てくるかもしれません。

    こうした仕組みがあれば若手は就職前に「最低限現場で動ける」状態になり、大学卒業時までに今で言う2〜3年目社員並みの動きができるような中小企業でも採用メリットを感じる人材が育つようになってくるのではないかと思います。

    特に専門職採用の間で、こういった実務に近い経験をしたことがあるか?が新卒採用時から問われるような風潮ができていくのではないかと思います。


    まとめ

    AIが単純作業を奪う未来はほぼ避けられないでしょう。その中で、ほぼ確実に社会的に問題になるであろう事態の一つがアシスタントの教育問題、未経験時の受け皿です。

    多くの企業がその問題を自覚するようになったとしても、やはり会社は慈善事業ではないので「赤字リスクを抱えてでもうちはアシスタント採用を続けよう!」という発想には至りづらいです。
    おそらくそうなるのは資本力のある会社やそういった方針が一つのブランディングとして機能するごく一部だけでしょう。

    そこで、そんな企業のジレンマと社会問題をつなぐ存在として「OJT型スクール」、あるいはそれに類似したサービスが登場してその空白を埋めていくのではと予想しています。

    AI時代における人材育成の課題の一つは、「入口の喪失」です。若手が現場で学ぶ機会が減れば、業界全体が先細りしてしまいます。企業が新人を雇えないなら、その役割を外部が担うしかありません。

    今後数年で、今回取り上げたようなOJTスクールが生まれるのか、あるいはまた違った形の解決策が広まるのか。いずれにしてもこの問題について何か新しいムーブメントが生まれてくるのではと予想しています。

  • なぜ私たちは使わない学問を教わるのか?

    なぜ私たちは使わない学問を教わるのか?

    学校では、授業の最初に「なぜこの科目を勉強するのか」をじっくり説明してくれることはあまりありません。多くの場合、教科書を開いた瞬間から本題に入ります。
    ふと、そのことを思い返した時に、ほとんどの先生は勉強の目的を教えてくれなかったのはなぜか疑問に思いました。


    勉強の目的は意外と見えにくい

    子どもの頃は、勉強の内容とその目的がなかなか結びつきません。
    大人になって振り返れば、「直接役立つわけではないけど、考える力の土台になっていた」と気づく場面はあります。
    でも、その“気づき”は時間が経ってからやってくるもの。子どもの段階では見えにくいものです。

    「どうせわからない」ではなく、身近に置き換えて伝えられるはず

    一部の人は「子どもには抽象的な目的は理解できない」と考えるかもしれません。
    でも私はそうは思いません。たとえ直接の意義は伝わりにくくても、子どもの世界に近い事例に置き換えて説明することはできるはずです。

    たとえばスポーツ。
    サッカーで勝つためには、練習メニューを選び、その効果を見極めて実行する必要があります。これは数学で「問題文を理解し、適切な公式を選ぶ」のと似ています。

    国語は「人を動かす力」

    そして、もし自分がチームのキャプテンだったとして、仲間に改善案を伝える場面を想像してください。
    「お前、戻りが遅いから1000回ダッシュ練習してこい」では誰も動いてくれません。
    相手の気持ちや負担を考え、納得できる形で提案する必要があります。
    これはまさに国語で学ぶ「伝える力」「相手の立場を想像する力」に通じます。

    社会(歴史)は総合演習

    歴史は、言ってみれば国語と数学の応用事例集です。
    過去の優秀な人物たちが、時代の大きな問題にどう答えを出したか。その記録が集まったものともいえます。

    例えば、火縄銃は強力だけれど装填に時間がかかる。この課題を、一人で複数丁を持つという発想で解決した事例は、数学的な思考に近いです。
    また、豊臣秀吉の出世には、人心掌握や状況把握など、国語的なスキルが詰まっています。
    さらに、権力を持った組織がなぜ繁栄し、どう衰退していったかを学ぶことは、現代の企業や部活動にも通じます。

    学校の勉強は「直接」ではなく「間接」の道具

    こうした例を見てもわかるように、学校の勉強は「直接的に役立つスキル」ではなく、「あらゆる場面に応用できる思考の道具」を学ぶ時間だと思います。
    問題は、その道具がどう役立つのかを、授業の中であまり説明しないことです。

    だからこそ、冒頭で“翻訳”してあげるべき

    私は、授業の最初に「この科目は君たちにとってこういう場面で使える」と、子どもにも理解しやすい形に“翻訳”して伝えるべきだと思います。
    それだけで学びの意義はぐっと身近になりますし、ただ暗記するだけの授業とは違うものになるのではないでしょうか。

  • AIがAIを衰退させる

    AIがAIを衰退させる

    AI検索で「サイト訪問」が激減する可能性

    最近、ChatGPTやClaude、Geminiなどの生成AIで情報収集する人が増えていますよね。質問をすると、すぐに答えが返ってきてとても便利です。でも、この便利さが普及していくと、懸念すべき変化が起きるのではないかと私は考えています。

    従来のGoogle検索では、検索結果から複数のサイトをクリックして、各サイトを訪問していました。でもAI検索なら、チャット形式で質問するだけで統合された答えがもらえます。わざわざ他のサイトに行く必要がありません。

    この流れが加速すると、人々がWebサイトを訪問する機会を減らすことにつながっていくと思います。それは、実はAIにとっても衰退を招く結果になる可能性があると考えています。

    サイト訪問減少が引き起こす本当の問題

    考えなくてはいけないのは、サイト訪問の減少がAIに与える影響です。ブログやニュースサイトを運営している人たちは、主に広告収入で生活しています。人々がサイトを訪問しなくなると、その収入がガクッと減ってしまいます。

    そしてこれが最も重要な点なのですが、お金が稼げなくなったら、質の高い取材や調査をする人が減ってしまう可能性があります。その先にある問題は、お金が稼げなくなったら、質の高い取材や調査をする人が減ってしまう可能性があることです。

    発信元への導線強化などの対策では解決できないのか

    生成AIで回答を生成する際に、もっと情報源となるサイトへのリンクを強調させることはできないかという意見もあります。でも、現実的には難しいと思います。

    AI検索の一番の魅力は、一つの会話の流れで欲しい情報が全部手に入ることです。途中で「詳しくはこちらのサイトで」と言われて別のページに飛ばされたら、その便利さが台無しになってしまいます。

    様々な情報を統合してアウトプットできることが生成AIのコアバリューなのに、ユーザーを外部サイトに送り出すのはあまり合理的ではありません。これは根本的なジレンマだと思います。

    法規制による解決も副作用が大きい

    「それなら法律で規制すればいいじゃない」という考え方もあります。例えば、公開情報を無許可で情報源にすることを規制する法整備などです。でも、これも良い案ではないと思います。

    せっかく今革命的に技術進歩が起きているのに、その進化にブレーキをかけることになってしまいます。

    私が考える解決策:「直接分配」の仕組み

    個人的には、AI会社が情報提供者に「直接還元」できる仕組みがあると良いと思っています。これは、サイト訪問に頼らず、情報提供者に直接お金を分配する仕組みです。

    具体的には、情報発信者が各AI会社に申請することで、AIに情報源として利用された時に一定の還元を得られるシステムです。

    実際に、The AtlanticやVoxなどの大手メディアがOpenAIと契約を結んだことが2024年5月に報道されています。また、CloudflareのCEOであるMatthew Prince氏は、音楽業界のSpotifyのような収益分配モデルをAI業界でも検討すべきだと提唱しています。

    このシステムは、情報発信者だけでなくAI会社にとっても長期的には不可欠になってくると思います。AI会社は長期にわたって質の高い情報源を確保でき、持続可能な成長が期待できます。生成AIの便利さを保ちながら、情報を作る人たちにもちゃんと報酬を払うことで、双方がwin-winになれる仕組みだと考えています。

    【参考】

    AIの持続的発展のために必要な仕組み

    このまま生成AIが普及し続けると、一次情報の発信自体が衰退して、巡り巡ってAIの情報源が不足し、回答の質低下を引き起こす可能性があります。これは最終的には情報提供者のみならずAI会社にとっても損失になってしまいます。

    現在はAI会社が一方的に有利な状況ですが、これが続くとAI自体の発展が鈍化するリスクがあります。だからこそ、情報発信者の権利を適度に保護する仕組みがあるべきだと私は思います。

    それは一方的な規制ではなく、技術の進歩と情報提供者の持続可能性の両方を実現する、バランスの取れた解決策であるべきです。

    みんながwin-winになれる仕組みを作ることで、より豊かで持続可能な情報環境を築いていけるのではないでしょうか。